昭和四十七年六月十八日 朝の御理解
X御理解 第八十一節 「氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十 里を登り切って向こうへおりたら、それで安心じゃ。気を緩 めると、すぐに後へもどるぞ。」
向こうへ降りたら、それで安心じゃと。大変な有難い素晴らしい事だと思いますね 安心じゃという事は、どんな場合でも安心しておれれるという事。いわゆる安心の大みかげ。仏教でいう安心立命が出来たと。
それは神様があの氏子はもう大丈夫と、神様が安心して下さる。その安心が私共に返ってくる。そこで日々を安心の生活。いわゆる喜びの生活が出来る訳であります。 ですからこれは、そこを目指さして貰うという事。それが信心の究極のところはそれです。安心の大みかげを頂くという事。
真の信心とは安心の大みかげを頂く事でありますと、三代金光様のお言葉で頂いた事があります。いわゆる真の信心にならなければ、安心のおかげは受けられません。 安心のおかげを頂きたいと思うなら、真の信心とは、真の信心とは、真の信心を求めなければならない事になります。
十里の坂を九里半登っても安心してはならぬぞと、という事は大抵信心の事は一通りわかった、もう親先生が言いなさる事は大体わかった、まあ、いうなら、改まれ、研け、和賀心になれという事ばっかりなんだ。大体の事はわかったと、まあ、いうならば九里半登ったところじゃないでしょうかねえ。
わかったばかりじゃいかん。わかったらそれが行の上にも表れておかげの上にも表れてくるという程しの、おかげを頂かなければ駄目です。
そこでですねえ、向こうへ降りたら、それで安心じゃという事はどういう事であろうか。私、今日改めてここのところを思わせて頂くのですけれどもねえ、いうなら、神様だけしか御承知でない修行と申しましょうか、神様だけしか御承知でない修行が楽しゅうなる。そういう信心が出来たら神様は安心して下さると思いますねえ。
決してその修行を見せぶらかそうという人もありますまいけれども、例えばいろんな修行させて貰う。いつの間にか人に知られてしまう。知られてしまう事が悪い事じゃない。けれども、これは知ろうとしても知られない、もう私と神様だけ。
今頃から、私は家内と一緒に食事をさせて頂く事にしております。家内は御飯を一杯しか頂きません。私は二杯、そしたら愛子がお母さんはここの修行生が学院に行く頃からはじめとんなさると。私はそれこそ何年ぶりかではじめて知ったんです。
ここから学院生が学院に参ります。だから上野先生が一番始めに行っとりますから何年になりましょうか。正確に言うと勝彦が行ったのがそうでしょうけれども、上野先生が行った頃からでしょう。それも愛子に言うた訳ではないけれども、どうもその頃からお母さんは一食修行しよんなさるですよとこう言います。私ははじめて聞いて嬉しかった。何年ぶりに御飯一緒に食べるようになってからわかった。
二・三日前から、二杯頂きよるようです。人にわかったからやめたのかもしれません。又自分の願い、修行がひとつ成就したから止めたののかもしれません。
愛子から聞いてわかった。だからそういう人にわかるとか、わからない、それが悪いとかじゃないですけれども、これだけは自分が黙ってさえおれば絶対わからんという修行がある。だからそういう修行がですね、楽しゅうなる。神様だけしか御承知でないという修行、これは誰も知らん。そういう修行が楽しゅうなってくると、神様がもうあの氏子は安心じゃと、いうような本当の意味の安心じゃないですけれども、まあ、まあ、そういう感じが致します。
昨日、伊万里の竹内先生が、一家中でお礼参拝してみえられました。もう本当に只只、恐れ入ってしまうおかげを頂いておられます。
それがね、家庭とかいう小さい問題なら出来る事ですけれども、いうなら、政治の上に黙って治めるという、それこそ伊万里の市長さんですから、伊万里のそれを、いわゆる黙って治めるという、もう大変な事だろうと思うですねえ。
もう、これはお話してよいかわかりませんけれども、昨日テレビでも丁度、竹内先生が見える時、テレビであっとったそうですね。それを丁度久富先生が見ておられたて、今日伊万里の事がテレビであっとりましたとこう言われる。
もう、とにかく、佐賀県の県知事さんとの交渉といったような事が、続いておりましたが、もう全然、本当に伊万里市としては、こうしてもらいたいという事を、ここまで出る事を言わずに治めたと、これには私も手をついて驚いてしまいました。
そして、自分の言おうとしている事、願うておる事を県知事さんが言われたと、もうそれはね、向こうからこう言うてきたなら半分にしょうと、例えば、事になるかもしれんところを、もう向こうに言わせた。沢山新聞記者達がやって来とりましすがそれであれは、もう恐らく、伊万里市長と県知事は話合うとったじゃうという事まで言われたという位な、もうそれこそ一言二言ではありません。それは本当に黙って治める事の素晴らしい事。
それで今度は竹内先生のとりまきの人達が、市長さんこうですよ、ああせにゃと言うてくれるけれども、そんならそれで、自分が市長の座をおりなければならないならばね、いつでもおりるという神様の御教えを行じさせて頂いて、そして市長さん、ああたどうも言いなさらんなら、ああた市長の資格はなかと、言われるなら、いつでも市長の座をおりる覚悟でありますという事。
私はね、そういう二つの人情と神情というような場合、それがどういう場合であっても、よしそんなら、現在の自分の店なら店が御教え通りにして、つぶれてもですよさらさらいとわない。御教えを行じながらつぶれるのなら、御教えのまにまにいかさせて頂いてそうなるのなら、それでさらさら、いとわんという、いうならば姿勢ですよねえ。自分が御教えを市政の上に表していかにゃならん。だからそういう、ふ-たらぬくい事であっては出来ん。そういう事では市長はやめてもらわにゃという働きになるなら、さらさらいとわんという意味の事を昨日言っておられますがね。
そこまで神様一途になったら神様がまあ、安心して下さる。みすみす人間的な考えで、そんなら右にしたがよいと思うけれども、親先生が左がよいとおっしゃるから、よしそんなら左の方をして、そんなら店なら店がつぶれるならば、そんなら自分が市長の座を追われるならば、追われてもよし、店はつぶれてもかんまんという程しの信が生まれたら、いうなら、九里半のところは十里登り切ったようなものだと思います それだけのものが出来たから。それも本当の意味でいう訳ではないでしょうけれども、まあだ、まあだ、安心立命といのは、まあだでしょうけれども、神様が、まあ安心して下さる。そこまでの信心がこちらに出来てきたら。
先日ある教会の先生がお参りして見えた。実は私の方も普請を思い立たせて頂いた それでまあ、寄り、寄り総代幹部が参って、話合いをしておるけれども、どうもいうなら、あんたが出せ、あんたが出せといったような尻くらべ的な事になっていたから、中の一人がです、よしそんなら私が土地だけはおかげ頂こう。私の方に何反の田があるから、それを献納する事にするという事にほぼ話は決まった。
ところがです、その人が事故に遭われた。皆さん自分の事として聞いて見て下さいそれだから献納という事がお流れになっしまった。自分がいうなら畑何反も、教会の敷地に献納しょうとまで思うとるとに、そして、事故にまで遭うならば、もうそげな神様ならやめたという訳でしょうねえ。
皆さんならどうなさいます?。そういう時にです、それを有難い事と信ずるならばです、例えばそれで右になろうが左になろうが、自分の初一念は貫かせて頂くという位な信心が出来ると、私は、そういう信心が出来たら安心だと思います。いわゆる神様が安心して下さると思います。
まあ、それは一寸余談でしょうけれど、今の話はまだ先があるのです。それでこういう場合、どういう考え方をしたらよかろうかというのがその先生の願いでした。
信者の中に、そういうまとまった献納でもさせて貰おうと、やれやれ嬉しいと思うたのも束の間、事故に遭われた。そしてそれがお流れになった。そういう場合、教師として、取次者として、どういうふうに、それを頂いたらいいだろうか、考えたらいいだろうか、という事であった。そしたらね、・・・・。
そこに今、御建築のあっております基礎の大きな柱のところに、芯と書いてあります。そこのところを御心眼に頂きます。ははあと、それから私はここの事を話ました ここでは誰あれも、私がいっちょ記念祭だから、西脇殿を作る。記念事業を何かせにゃいかんばいのという言うたのでもなんでもない、ここの場合。
みんなが寄り、寄り自然の中にです、自然の神様のお働きの中にそういう事が話合いがされて、そしてそれを着手という事になった。
○少会館の事が先に話が出ましたけれども、その時には、お許し頂かしやった神様に。それが御広前の延長とあるならばという事であった。だから御広前のこれであったらほんなこつ、そこで西脇殿という事になった。
自然の働き、いうなら神様の働きとお互いの心がです、私が十三日会の時聞いて頂いた事がね、合楽で五十人の人が、それこそ一本の柱にでもなろうという気になる人が五十人出来たら、御造営は成就する。沢山のお供えするとかしないとか、そんなこつじゃない。本気でです、自然の働きがです、自分の心とひとつになって、その柱の一本にでも私がならせて頂こうという人が五十人集まったら、この御造営は成就するよと、言うて私はうちの信者に申しましたが、例えば、先生がいらん事思い立ちなさるからというような雰囲気の中にいうなら、御造営なら御造営が事業なら事業が、はじめられたのではいけない。
これは御造営の事だけではいけません。自分自身の家の事だって同じです。いうなら自然と偶然が一致する一致点を持ってのおかげを頂かして貰おうというような、信心が出来たら私は神様が安心して下さると思う。
これは私がいつも申しますように、ひとつの事をひいたり、たしたりしてみるのです。自分は本当だと思うんですけれども、その本当かどうかを答えを見てからしか前進しないという行き方なんです。例えばそんなら、お芝居を見たいと思う、思いよったら丁度入場券を頂いた。だからこれは神様がお許し下さるとだなあとこう思う。
それでも尚且つです、ひょっとしてこれは間違いかもしれん。そうしよったら親先生車は私の車を使うて下さいというような人があったとする。そこにいよいよ答えが出てくる。ああ今日はいよいよ神様がお芝居を見せて下さるなあというような行き方なんです。
石橋を叩いて渡るというけれども、そういう信心のひとつの行き方を体得する。そこが体得出来たら、もう安心ですよね。神様も。おかげ落とすような事がない。
だからこちらにも又、安心が与えられる訳です。皆さん信心の願目が、安心のおかげを頂く事にあるのです。真の信心とは安心のおかげを受けに事なのです。向こうへ降りたらそれで安心じゃという、いわゆる神様が安心して下さる。自分の心にも安心が出来れるという素晴らしい生き方をです身につけるという事が信心なのです。
ですからそんなら、自分の信心というものが、今日私が箇条書きに、こういう状態になったら神様が安心して下さるという事を幾つも申しました。
もう一つ、先日から求不得苦(ぐふとくく)という事を頂きましたですねえ。求不得苦と、これは仏教の四苦八苦の中の一つである。お釈迦様かおっしゃったお言葉であります。求めても与えられない苦しみ、人間にはそういうのがついてまわるのだと そこで教祖さまは、どういうふうにおっしゃっておられるかと言うと。我情我欲をはなれてとこうおっしゃる。そこには真の道がはっきりしてくる。我が身は神徳の中に生かされてありという事がはっきり体験さして貰う。
成程神様の御守護の中にあるのだなあという事がわかる。だから本当に神様の御守護の中にあるんだなあという喜びの日々がです、そのまま安心の生活につながる訳です。そこでそんなら、楽はせんぞというような、もうこちらがそういう修行に取り組む事なんです。自分から求めてあれを買おう、自分から求めてあれを作ろう、自分から求めてお芝居にでん行こうといったような心かけを、捨てる事なんです、そういう心を。そして只今申しますように、楽はせんぞというような心がけになるという事。 こういう心の状態がすっきり出来たら神様が必ず、安心のおかげを与えて下さる。 何故っで神様が安心なさいますもん。あれが、おかげ、おかげと言いよるけん、やったらすぐ贅沢する、じつなるけんどんこんならんけんと、神様が二の足踏みなさる事があるだろうと思う。
お金をお金をと言うけん、お金をやりたい、そるがお金持たするとすぐ悪かこつすると、例えばまあだそこんところに神様が不安であんなさるならば、いつまでたってもおかげも受けられんだろう。又は不安の生活が続くでしょう。
それこそ竹内先生のお話じゃないけれども、それこそ信心一途、そういう素晴らしい信心を目指させて貰うて、それで安心じゃとおっしゃるような安心のおかげを目指さして頂くという事。それにはそんなら求不得苦の苦しみも、自分が求めておるものを、捨てきった時にはじめて、心は楽である。あれが欲しいあれが欲しいという心を捨てたら、もう楽でしょう。ああしたい、ああしたいというその心を捨てたら、楽でしょうが。
神様が決して、旨いものを食べちゃでけんとか、よい着物を着ちゃならんとか、そういう贅沢な遊びはしちゃならんとかというような事ではない。そうい事もなりたいさせたいと神様は願っておられる。けれども安心して、喜んでそれが頂けれるようなおかげを神様は願うてござる。
本当に我情我欲を捨てる事に一生懸命精進しなければ、そういう例えばそんなら楽はせんぞと、楽はさせて頂くのだ。神様がさせにゃおかんという働きのあった時だけ頂こうと、もうそんなら、倒れるじゃろうという事は決してない。
こちらがその気になったらね、神様が毎日でも、そんならおいしいものは食べんぞと心に決めた、贅沢なものは食べんぞと決めた。ところが神様は毎日毎日いわゆる百味の御食と思われるような、お御馳走を目の前に出して下さるなら、箸をとらせてもらう事の方が神様のお喜びなのだ。いいえ私しゃ食べませんとう向こうへ押しやるなら神様の方ががっかりしなさる。
けれども今日は、鯛の刺し身、明日はすき焼きちゅうたるふうで、自分が食べようとするからいけんのだ。まあ私をひとつの手本にして下されば大体いいのである。
私共が本当に毎日毎日を百味の御食と思われる程しにおかげを頂いておる。一昨日も大事なお客さんがみえたから、見えた時は見えた時でちゃんと、あっちこっちからお魚とか、いろいろなお御馳走を頂いております。
昨日も、今私が申しますように、私がさがって丁度客殿でお客さんとお話しよる時に、竹内先生達がみえましたから、あちらで、客殿でお茶をあげよった。
丁度夕食の時間になりましたから、運んできましたが、ほう今日はこげなお御馳走があるかと言うごと、買いに行った訳でもなあ-んでもない。だからこげなもんは、贅沢かけんで食べん早うなおせとはいわんでいいでしょうが、箸をとって頂いた方が神様が喜んで下さる。だから、そういうおかげの頂けれる世界が金光大神のおかげの世界です。
それを自分でああしたいとか、ある食べたいとか、こうしたいとか、というようなね、間はね、まだいくら私の言う事が、親先生の言いなさる事はわかっとる。合楽の信心はこうだとわかっとるだけではです、まあだ九里半しか登っとらんのですから、もうそげな信心ならいつ後戻りするかわからんけん、不安でたまらん。
私が不安なだけじゃない。神様も不安でたまりなさらんから、いつまでたっても本当の安心のおかげは受けられんという事になる。
先日も朝食の時に家内が、親先生が喜びなさるように何とかかんとかと言いましたから、お前だんこういう事して俺が喜ぶと思うかと言うて、私が申しました事です。 私が喜ぶのはね、私の心にピタッとくるような信心を、私が見た時、喜ぶのであって、こういうものを作ってくれたからとか、こういう事が俺が喜ぶとでも思うとるかというて申した事でございますけれども、昨日も合楽会で話した事です。
それこそ私が痒いと思うところの近所ぐらいまでは掻くけれども、本当に痒いかところを掻いてくれる者が一人もおらん、けれどもこれは合楽ならではという事は、合楽の人は私が痒いかふりしとるとです、近所までなっとん掻いてくれる。合楽の人達は皆んな。けれども、どこどこ辺ではです、掻こうともしん。先生が痒かと言うたっちゃ知らん顔しとるというのが多い。
ところが合楽の人達の場合は、そうじゃない。近所までは掻いてくれる。けれども本当のところを、親先生の本当の祈りとか願いとかいうものはどこかという事を、それこそ、ここですかと言うて掻いてくれるようなね、おかげを頂いた時に、私は有難いと思うし嬉しいんだという訳であります。
だからそれが出来る時に、私はこれは私が安心するだけじゃない、神様が安心して下さると思う。それが出来るようになった時、私ははじめて九里半ではない、十里の坂を登り切って向こうへ降りた時であり、それで安心じゃというおかげを頂いた時だと思うのです。
お互いがね、例えば今も申しますように、本当に百味の御食的な食べ物だけじゃない、一切の上にそういおかげを頂きたい、又そういうおかげを頂けれる。
だから本当に、そういうおかげを頂かせて頂く信心が出来た時にです、いわゆる向こうへ降りた時でり、それで安心じゃという時なのです。
そうらちょっと難しいかと言わずにです、楽しゅう出来る信心です、それにはやはり、はまらにゃ出来ません。それを今日私は、箇条書きに申しましたですねえ。こういう心の状態が出来たら神様が喜んで下さる。こういう状態になったら神様も、まあまあ、安心して下さる。ぎりぎりのところ、いわゆる我情我欲が離れて真の道がわかった時、自分で求めようとは思いません。自ら楽しょう等とは思いません。させて下さる楽を頂かせて頂くというような楽という事はおかげ。そういおかげを頂くまではという信心が私は、十里の坂を登り切って向こうへ降りた時だと、まあ今日は八十一節をそのようなふうに頂いた。
大体はもう大変に難しい、成程信心の最高の願目とでも申しましょうか。安心の大みかげを頂くという事ですから。
けれども今日の御理解を頂いて下さって、ひとつ、ひとつ私が申しましたような事を身につけていけば出来るのですから、本当にそういう修行をさせて頂こうという気になれば出来るのですから、それをひとつひとつ、身につけさせて貰うてです、いうなら人から見たら贅沢と思われる位なおかげの頂けれる世界にね、ひとつ住み替えたいと願うのが、私は金光様のおかげの世界という事になると思うのです。
すぐ後へ戻るぞ、大抵出来たごたる、大抵おかげ頂きよる、成程偶然と自然が一致する程しのおかげも頂き出してきた。だからと言うて、例えばまあだ、まあだ高嶺の花といいごたるところに手を出しよるような事では、もうそこからおかげが漏れてくる。そこまでのおかげは、今頃から頂く御理解でいうならば、月形半平太、そこんところを頂きぬいて、向こうへ降りて、はじめていわゆる円満なおかげという事になります。
どうぞひとつ、本当のおかげを求めて、本当の信心を求めて、本当に神様が安心して下さるだろう、喜んで下さるだろうと思われる信心を目指して頂くというのですから、やはり決して容易い信心ではありません。
けれども、今日はそれをいくつにも切って申しましたから、それのひとつひとつを自分の信心に体得させて頂くという信心修行させて頂いたら、成程この調子でいきゃ向こうへ降りきれるぞと、確信が持てれるようになってくる。そういうおかげを皆さん頂いて頂きたい。どうぞ。